真に人を支配するもの

先週、長年愛用してたパソコンが不注意で壊れてしまって、バックアップをいろいろ探していたら、なんと以前のブログのバックアップが出てきました。

バックアップとってたんですね・・・。忘れてた。


いろいろ見てたら、最近こういうの書いてないな、と思う記事があって、何となく再掲載してみようかな・・・と。

前の時は、こんな変というかややこしいことしょっちゅう書いてましたね。

ほんとひどい記事(笑)だけど。

これ、日付が2016・5・29になってましたのでそんな時間たってないんですねーずいぶん昔のことのような。



まあ、以前からこのブログをお読みの方はお気づきだと思いますが、私はそんな小難しいこと考えてどうするの?というようなことをよく考えます。

実際たまに聞かれるんですよね。そんなこと考えて面白いの?って。


いや面白いんですよ、これが。何の役にも立たないし、結論も出ないし、結論がでたからどうなる話でもないのですが、こういうことを考えなくなったらたぶん私は生きていけません(笑


で、今回のお話ですが、「人を支配する、見えない統治者について」です。今回はあやしさ満開ですね。

で今まで以上に、根拠が薄い単なる私の頭の中の世界になっています。すごく長い上に意味不明度も非常に高いです。



最近、書店に行ったら「コミュニケーション術」をテーマにした本がたくさん並んでいます。

同じようなタイトルの本が何冊もおすすめのコーナーに置いてあります

これって勉強するようなものなのかなぁという疑問もわきつつも、あんまり興味がわかないので読んではいませんが、確かにネットでも盛んに「コミュ力」というのがキーワードとしてたくさん出てきますよね。


最近のコミュニケーションというのは「キャラ」という言葉が象徴するように、深く互いを理解しあうより、キャラクターを演じることによって、コミュニティーの円滑な運営に重視を置くような人間関係が求められているようです。

会社組織であれば仕事の役割という意味では方法論として正しいかもしれません。しかし、単なる趣味のコミュニティーなどでもそのような行動が重視されています。


本来的にはコミュニケーションというのは自分をよく知ってもらうこと、相手をよく知ろうと思うところから始まるのですが、最近のコミュニケーションはすごく記号的で表面的です。

現代社会の問題やデジタル社会の問題、テレビの影響、はたまた「傷つきたくないから、深く付き合わない」などなどの心理学的なアプローチでのコミュニケーション不在という批評などもよくありますが、なるほどと思う一方、それだけではない気がします。


そこでふと思ったのですが、もしかして現代という社会はそもそも「人をよく知る」必要がなくなったのではないか?と。

つまり、そういう記号的な人間関係を築くほうが社会が正常に機能するということを深層心理で知っていて、それに従っているのでは?ということなんです。

大きな目で見て人間社会には私たちが「常識」とおもうような当たり前の行動、思考の前提には生きている中で自然と刷り込まれているものがあります。


最近よく使われる言葉に「空気」という言葉がありますが、その場の空気というものではなく、人間の社会の全体にかかる大きな「空気」というものがあるのでしょう。

その人類の漠然とした共通概念の元になるものは、その時代と人間の心を支配している見えない統治者のようなものが存在し、深層心理でその統治者に従っているからと考えたらどうでしょう。

ここでその統治者が変化しているとしたら・・・。



人類は、数千年前、世界中でアニミズム信仰を持っていました。つまり自然信仰です。

彼らはいろいろな自然現象に神の存在を信じ祈りをささげてきました。

そして、集落ごとに司祭者を中心に自然とともに生きてきました。


ここでの価値観は自然の機嫌を損ねないようにすることが第一義です。

権力者も自然神に恐れを抱くので、自分を律することができるのです。

そして、みな勉強したわけでもなく教えられたわけでもなく空気のように神を心から信じ、その感覚で集落の人間関係を円滑に行うのです。

豊かな実りや豊かな狩りが成功するよう神の機嫌を損ねない。というのがすべてにかかわる「空気」だったのでしょう。


そうです、信じている信じていないにかかわらずこの時代は「神々」が絶対的な支配者だったのです。

そして日々の狩りや収穫にまい進する。

自然に潜む神々に祈りをささげ、自然と調和のとれた生活をしていたのだと思います。


しかし、紀元前1000年ころから集落同士の争い、異民族の進出の争い、帝国の建設と一気に社会が混乱と混沌を極めたわけです。

ここから様々な要因で再び人が人として団結を図るためでしょうか、新しく一神教が誕生しました。

これはキリスト教だけではありません、イスラム教も一神教ですし仏教も儒教も神という形をとっていませんが構造的には一神教とよく似た構造を持っています。

これらはほぼ同じ時期に成立しています。


これは、自然信仰に見られるいろんなものに存在する神の全否定です。ただ、全知全能の神を信じよと。

仏教などではこの宇宙に存在する法則、何かしらの絶対的な力の存在です。


ではこの時代はその全知全能の神が支配者だったのでしょうか?

古代の自然神とは、自然の力や働きを畏怖に感じたりとその力を神聖化してできた神です。ですから、あくまでも人間が考えた、人間が中心の世界ではありません。

大地、そこに生まれる木々、動物、人間の関係性ををありのままに見ようとしています。

しかし一神教の神とは、人間が中心のルールの構築です。絶対的な救世主を誕生させ、人間のためだけのルール(教義)を作り上げ、古代の自然神はなかったもの、あるいはあくまで絶対神のしもべと定義したわけです。


この時代より、絶対的な真の支配者は「神」から「人」へ変わったのではないのでしょうか。


ここから2000年、現代にいたるまで、すべて人間中心の世界が作られてきました。

山を切り開いて街を作り、自然が必要だといって公園や森を人工的に作る。

自然とともに生きてきた古代人には全く理解できなことなのではないでしょうか。自然の力を借りることができなくなるのですから。

しかしこの時代の人たちは何のためらいもなく、自然を支配下に置き、動物も支配下に置いたのです。

その一方で人間のことをよく知り、心を大切にした人間社会を作ってきました。

人間哲学を追求し、人間同士のコミュニケーションを重視した社会だったのです。


しかし、行き過ぎた人間至上主義は、全体主義を作り出し、世界を巻き込む大きな戦争を生み出します。

社会は再び大きな混迷を極めるわけです。


そんな中、19世紀中ごろ、資本主義という概念が生まれます。

そしてその混迷の中、次第に影響を高め、急速に世界中を支配していきます。

経済はどんどん発展していきます。同時に権力者の影響は低くなり、全体主義的な考えは徐々に弱体化していきます。

まるで、人に従うことをやめていくように。


たしかに、人間至上主義は影をひそめたと思います。

自然との共生というような生態系の一部に回帰しようというような流れも見られます。

もう一方では、金融市場では機械的に売買が行われ、世界の情勢が少し変化すると一斉に機械的にポートフォリオの変更が行われます。巨大化した金融ファンドのその少しのポートフォリオ変更という行為のみで本来の労働の価値、生産の価値というものが、たった数分でごみくず化してしまうような勢いで変化します。その連鎖は大きく、破綻者まで生み出します。


一部のお金持ちの利益のためだからとの批判もあるでしょうが、実際お金持ちはお金を利用しているのでしょうか?

今の世界市場を見るにつけ、延々と増殖をするためにだけ使われているような気がします。

最終的に「労働の対価」に反映されないわけですから。


そして、おかしな話なのですが、お金持ちほど増やす必要のないものまでをずっと運用してクラッシュの恐怖を常に感じているのです。

いまや世界の指導者や裕福層までもが金融経済に右往左往しているのです。

現代は「人」から「資本主義」すなわち「お金」が統治者になりつつあるといえるのではないでしょうか。


これは、よくいう拝金主義だとか、お金に支配されるなと言われるような次元ものではなく、今を生きる人たちの思想、行動のすべての根底に存在する、これまでの「神」のような存在になったということです。

お金に使われるな、拝金主義をやめろという人ですらもうすでにお金が作ったルールに洗脳されているのです。

もう、信じる信じない、好き嫌いにかかわらず、すべての人の共通概念を作る得体のしれない空気のようなものになっているということです。



そもそも神もメシアも資本主義もお金もすべて人間が作り出した概念です。

しかし、人間はそれを偶像化することによって、いつの間にか偶像に支配されてしまうという精神構造を持っています。

偶像を崇拝するようになり偶像がさも意思を持っているかのように考え、その偶像、すなわち神であり統治者の機嫌を損なわないような行動をとろうとするのです。

支配されていることは気が付きません。それが洗脳というものですから。

人間は人間が作り出した不思議な空気に支配される生き物なのかもしれません。

そしてその「不思議な空気が人の行動を左右するため」のルールをなぜかみんなで作り始める。



初めの話に戻します。

今のコミュニケーションがなぜ記号的なのか、ということを統治するものが誰か?という観点で考え、それを「お金」ということで考えてみると、しっくりいきます。


今のインターネットビジネスは、広告業が中心です。

例えばヤフーニュースのコメントなどではそのニュースに対する批判、こんなニュースを乗せるなという苦情ですら、ヤフーの価値になる仕組みです。

どういう形であれページ閲覧数が上がればいいのです。

何のためらいもなく社会的ニュースと芸能不倫ネタを同じように取り扱います。


SNSも自己顕示欲でファッションのように自分を着飾るために人を利用する表面的なコミュニケーションを盛んに行います。その自己顕示欲で一生懸命集めたフォロワーさんの投稿なんか読んでいないのでしょう。

写真もそうです。肖像権とかもうお構いなしですよね。

でも、全部そのSNSの利益になります。企業の広告の対価ももらえないのに、顕示欲の満足のためか喜々として拡散しているわけです。

まとめサイトなるものも他人のコンテンツに対価を払わず、著作者より金儲けをするわけですが、もうその流れを止められません。

まったくウソであっても、もうお構いなしです。PVですべての価値が決まるのですから。

苦情でも、嫌みでも、自己顕示欲でもなんでもいいんです。


人の創作物をさも自由になるコンテンツとして利用する様はもう当たり前の光景です。

人に対する配慮は二の次なのです。


つまり労働や生産的行為が金銭を生むのではなくて、人が欲望のまま行う行為ですらお金を増殖するような仕組みになっています。

数年前はかなり問題視したり是非の議論が当事者のIT企業でもされていましたが、もう完全に思考停止してその是非は問われていません。

仕組みを作る人、使う側、それぞれもう思考停止しています。


私たちは徐々に、お金を増殖させる仕組みの上では、過去の道徳や倫理観などを照らし合わさず、そこに疑問の余地を挟まなくなってきています。


これは完全に、人から「お金」というものが人間の真の支配者になりつつある側面でしょう。労働や生産という本来の価値が完全に崩れています。

なかでも人間の知的生産にかかわる価値までもどんどん崩れているのは象徴的ではないでしょうか。


そして誰もが、それは「お金」という統治者の存在によって作り出されたルールということに気が付かず、さも正義であったり当たり前の行為として行っている。

たしかにそういう行動原理になれば、人と人が深く知り合い理解を深める必要はなく、人としての連帯感などは表面的なもののほうが都合がいいのしょう。

機械のように合理的な行動をすればいいのですから。

深く考えて人間の気持ちを考えたら動きが止まることになるでしょう。


神から人へ、人からお金へ、そんな時代の変革のいまはちょうど、変化の初期なのだと思います。

だから答えのない時代といわれるのかもしれません。まだ人類が慣れていないのです。

記号的な付き合いを求めつつ、同時に寂しさを募らせていくというジレンマを感じているのですから。

神から人への時代の変化が激動ながらも時間がかかったように、今もじっくり時間をかけて変化していってきています。


私たちはこれを受け入れるしかなく、もしかして私たちが今考えるべきことは、時代を巻き戻して人間至上主義などに戻ることでもなく、このお金が支配する時代に適した新しい哲学を構築するしかないのかもしれません。


神は選べないのですから。


人間の歴史を見る限り、そうやって人類は変化してきているような気がします。



うーん、まったくもって何言ってんだという話ですね。

こういう意味不明の長文を書けるのもブログならではでということで。

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