誰も寝てはならぬ~思うことの大切さ

あけましておめでとうございます。


正月早々去年を振り返るのもあれなのですが、去年、とても面白いことがおきました。

改めて、「思う」いうことの大切さを実感させてくれる出来事でしたので、

ちょっとそのことを。


なぜか、去年の頭ころから、漠然とこんなことを考えていました。


一つは、大阪市中央公会堂という大阪中之島にあるネオルネッサンス形式のとても古い洋館があるのですが、そこでチェンバロを中心とした編成で、古楽を聞きたい。

しかも、有名なCDできけるような、美しい響きを再現できる素晴らしい演奏家のもの。


もう一つは、その前くらいにマクサンス・ラリューという人のフルートを聞いて、フルートという楽器の豊かさに、改めて感銘を受けたのですが、これも同じく、そのラリュー氏と同じような豊かな音色を奏でてくれる演奏を生で聞いてみたい。


あと、なぜか、プッチーニによるイタリアンオペラ「誰も寝てはならぬ」をこれも同じく生で聞いてみたいと。

これがなぜか私もよくわからないのですが、この曲をどうしても生で聞いてみたいと思ったんですね。


まあ、こんな感じで、軽い希望のようなものなのですが、すごく強く思ったんです。


どれも長期的には実現可能なようだけど、そんな機会はそうそうないなぁと思っていたのですが、しばらくして、ある文化団体のイベントで古楽の演奏会のお誘いがありました。


しかもイタリアで活躍する有名演奏家で、なんと中央公会堂で開催だというのです。


ちょっとびっくりしたのですが、もちろん参加させていただきました。

ネオルネッサンス形式の洋館のホールで聞くチェンバロとチェロ、フラウトラヴェルソの音色は格別で、また、その演奏も素晴らしく、とても優美な体験でした。


そして、12月。また、ある文化団体の主催でラッファエーレ・トレビザーニという世界屈指のフルート奏者のリサイタルとイタリアのジャンフランコ・パッパラルド・フィウマーラ というオペラ歌手によるイタリアンオペラが開催され、それもご招待いただきました。


なんという、ことでしょう。思っていた通りどころか、たぶんこれ以上ないという催しです。


どちらも素晴らしいものでした。特にフルートのその音色の豊かさには圧倒されました。

しかし、イタリアンオペラでは「誰も寝てはならぬ」は歌われませんでした。

それだけが、残念だなぁと思っていたのですが、まあこれだけ世界の一流の音を聞けた事ですら奇跡のようですから・・・。



そして年末・・・

友人にチケットがとても安く手に入ったので行かないか?とコンサートに誘われました。


シンフォニーホールでのカウントダウンコンサートです。

私は誘われるがままに行ったので、予備知識とかなかったのですが、当日入場してプログラムを見ると、Jストラウスやチャイコフスキーからオペラ、ミュージカルとバラエティーにとんだ内容を、オーケストラと、ダンサー、オペラ歌手とで華やかに行われるものでした。

そして、「誰も寝てはならぬ」の文字が・・・


目を疑いました。


次々と素晴らしい演奏と、歌、ダンスが繰り広げられていきます。

そして、なんと、最後のカウントダウンの曲が「誰も寝てはならぬ」です。

後ろのコーラスの方々がローソクを手に持ち、雰囲気を盛り上げます。


その荘厳な美しさと、この奇跡のようなタイミングに、少し涙が出ました。


さて、これは奇跡とか、願いはかなうという、そういった類ではなく、単なる偶然でしょう。

しかし、それは「思い」は大切ということを象徴する出来事のように感じました。

思わなければ、お誘いがあってもすっと反応できなかったかのかもしれませんしね。



実は私、この数年、ある事故の後遺症で、入退院を繰り返していて、手術を3回ほど受けました。

その手術を受ける前は、仕事もままならず金銭的にも困窮し、半ばやさぐれてしまって、もうどうしようないほど落ち込んでいました。


しかし、いろいろ思いなおして、ちゃんとなおして一から頑張ってみようと決意した年の年始に神社に行った時です。

なぜか頭に「ハレとケ」という言葉が浮かびました。


これは、日本の民俗学より生まれた言葉で、「ハレ」=大切な日、「ケ」=日常で、ハレとケをしっかり区別して生活する、日本の世界観のようなものなのですが、なぜこの言葉が浮かんだのかは全くわかりませんでしたが、少し意識してみるようにしました。


一年ぐらいたった時にふと思ったのですが、気が付くと、いろんな団体の、いろんな行事に参加していました。

夏の神道の「御神事太鼓」だったり「観月祭」だったり、そういう海外の素晴らしい音楽家のイベントだったり。

そんな中で、素晴らしい伝統行事や、文化に触れ、生きる意味を再確認させてもらえたのです。


去年は、初詣の時に思い浮かんだキーワードは「穏やかに」でした。

これもなぜかはわかりませんが、度重なる手術に疲れ果てていたのでしょう。


今年の春から夏にかけて入院して手術をして、退院したら今年の猛暑でリハビリどころではなく、術後の炎症が続いてと、秋ごろまでとても穏やかとは程遠いな・・・と思っていました。


しかし、そういういろんな出来事にも、「穏やかに」というキーワードを忘れないようにし、自分に言い聞かせてきました。


すると、秋ごろから急に、いろんなことが好転し始めました。

いや、何も変わらないのに、好転したように感じたのです。

体も体調がちゃんと回復するにはあと一年かかるといわれたほど、さほど良くはなっていないのですが、もうどうでもいい感じです。


不思議なもので、そのころから心が毎日穏やかになってきて、さまざまなことが本当に好転し始めました。


意識することで、普段気が付かないことに気が付いたりと、いろんな感受性が変わってきているのだと思います。

思い、意識し、行動することで、いろんなものの見え方が変わってくるのでしょう。


頭では分かっていることですが、なかなかそういう風に心から思い、行動することはとても難しいことです。

しかし、思い続けることで、時間はかかるけど徐々に変わっていく。


古い原始仏典に次のような言葉があります。


ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも、汚れた心で話したり、行なったりするならば、苦しみはその人に付き従う。

~まるで、車を引く牛の足跡に、牛車の車輪が、ついていくように。


ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも、清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う

~影がその体から離れないように



苦しいときは、現実に苦しいことがあったから苦しいわけですが、そのあとの苦しみは、苦しみに埋没した自分が作り出すもの。

幸せも同じく、幸せなことがあったから幸せなのではなく、そのように思い行動することが、現実を豊かなものにしていく。

それは、理想論や単なる精神論ではなく、ある種の真実ではないか?ふとそんな思いを強くしました。


大晦日の最後に、「誰も寝てはならない」を聞けたことは、とてもそういうことを強く象徴する出来事だったような気がします。



さて、今年の初詣のキーワードは・・・。今は内緒にしておきます。

しかしなぜ、「誰も寝てはならぬ」がこんなにききたかったのでしょうか?謎です。



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