内なる神々の声

先日の「人の祈りと音楽」という記事を書いて、ふと昔「内なる神々の声」というようなタイトルで、人は昔から内なる声に耳を傾け、そこになにかを見出そうとしてきた。そしていわゆる内なる神の声とはもしかしてこういうことではないだろうか?というようなことを書いたことを思い出しました。


ちょっと思い出しながら書いてみたいと思います。

まあちょっと軽い?トンデモ論のようなものですが(笑



私たちは、目の前に何か異変が起きた時に、よく観察して、それと類似するものを過去の経験から引き出してきて、対処法を考えます。

何かに対処するというのは自分の意識のする仕事です。

もちろん本能でとっさに体が動くという部分もありますが。


古代人には現代人のように「自己の意識」というものがなく、その自己の意識が生まれれる前の人類は、その機能は神々の仕事であり、古代人は何かの異変に遭遇した際、神々の声がどうすべきかを告げてくれるのを待っていて、それをはっきりと聞いていた。とジュリアン・ジェイソンズという学者は「神々の沈黙」という本で仮説を提示します。


確かに、この著者が例に挙げているホロメスのトロイ戦争をうたった叙事詩、イリアスでは神の意思のままに人間が行動する様子がうたわれています。

戦争時の行動をすべて神のお告げの通りに、なんの迷いもなく行動するのです。


そのことを著者は

自身の右脳が発する言葉を神の声として聴いていたとし、

「古代の人々は、命令を下す”神”と呼ばれる部分と、それに従う”人間”と呼ばれる部分に2分されていた」

との仮説を立てました。


古代の人々は「意識」に目覚めておらず、自己の無意識の部分で自身に自然に命令を下していたというのです。

古代人の右脳に、左脳の言語野に相当する機能を持った場所があったと推測し、それが神の声の役割を果たしていたのではないかと。

実際は自身の右脳が発しているのだけど、本人は神のお告げと認識しているというのです。


そして文字を発明し物語を作り始めると同時に人間に「意識」いわゆる「内省する我」が目覚め、自我意識が主体性を持つことで、神の声(右脳が発する情報)は失われていったと。  


これを現代の統合失調者とよく似ているとし、

(どちらかというと統合失調者の治療から着想を得たそうですが)

現代人のように主観がない当時の人々は、いまでいう統合失調者の幻聴のように、聞こえてくる幻の声に従うしかなかったとしています。


そして、統合失調者の幻覚は、時として本人以上の考えを述べていたりするように、当時の神の声を聴く人、預言者なども時には本人の知らないことまで即興で語っていたと。


実際に重度の統合失調者の場合、右脳と左脳の連絡を絶ってしまうような手術があり、かなりの有効な手段としているようです。


とんでもなく難解な話なので私自身ほとんど理解できてないので、お伝えするのは至難な業なわけですが、まあ概論はお分かりいただけたのではないかと思います。



ここで思うのですが、なぜ古代の神話の神の声や統合失調者の幻聴のように、右脳が行っていたとされる神の声はなぜ本人の知識や思慮を超えていると思われる内容がみられるのでしょうか?


少し、その辺りを考えてみたいと思います。


経験則から想起している妄想や幻想であると断ずることが多いようですが、そうも説明できない事象もあります。


例えば、1960年代頃に現れたサイケデリックブームなどをご存じの方はお分かりいただけるかもしれませんが、見たこともないような恍惚感を表現したものを生み出すわけですが、同じ環境や同じ芸術体験がない人間が、同じような近いものを生み出したりしています。

まさに、神の世界にアクセスしたかの如く、未知の世界を同じように描いたりするのです。

ドラッグによって古代人や統合失調者のような脳の状態になっているのでしょう。


その脳の状態は、ちょっと怪しい表現ですが、やはり何か違う世界にアクセスしているのではないかと推測してしまいたくなります。


そこで思い出されるのが、ユングの集合的無意識です。

ユングは統合失調者の語るイメージに共通のイメージがあったり、世界の神話に共通点が多いことに着目して、フロイトの個人的無意識の範疇では論じれないとして、人間の無意識の奥深くに人類共通の素地があると考え「集団的無意識」を提唱し、その無意識層のことを「人類の歴史が眠る宝庫」と称しました。


大乗仏教でも宗派によって七識だったり八識だったり、九識だったりと差はありますが、人間の意識作用のことを理論的に分類し構築していて、触覚などの感覚器官から、それを受け止める意識の存在、その奥の無意識層をいろいろ定義していて、無意識の中のさらに奥のところに人間の共通基盤となる清浄なる知恵というような存在を論じています。


紀元前の、まだその古代人の時代に近い、インドのヴェーダ哲学でも、「よく修業しよく努めたものは、宇宙の絶対神ブラフマンと一体化し、二度と生まれてくることはない」と。

もともと生命は宇宙の一部であったというような思想が見て取れます。


やはりこれも、少し強引かもしれませんが、共通的無意識の再探究のようなものの芽生えであったのかもしれません。


文字によって、意識が芽生えはじめ徐々に神の声が失われ始めたというのが、ジュリアン・ジェイソンズの説に従い3000年前だったとして、確かにその後、地中海諸国は多神教の自然信仰から救世主を定義する一神教に統合され、同時に自己を内省し、思考によって人間というものを定義しようとしたさまざまな哲学者が生まれました。


そして、東に向かったアーリア人は前述のベーダという哲学を生み出し、インドではひたすら自己を内観するために過酷な修行を行うようになりました。


そこから見て取れるのは、やはり、その当時の人々は、本来に人間にあった直接的に感じていた何らかの知識や知恵が失われた(もしくは、あったに違いないと考えた)そしてそれを取り戻そうと、直観的に、荒行によって意識、自我を滅することを考えたのではないでしょうか。

こう考えると、なぜ荒行が主流になったのか少し理解できるようになります。


当時のアーリア人は、まだほんの少し、神の声が聞こえている人がいたのかもしれません。

今度は遺伝子という観点から見てみます。


「我々は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ」というリチャード・ドーキンス博士の説があります。


遺伝子は、マスター・プログラマーであり、自分が生き延びるためにプログラムを組む。 体はあくまで乗り物に過ぎず、遺伝子の目的は自己のコピーをひたすら増幅させることであると。

私たちの体は遺伝子にとっては単なる乗り物で、あくまで遺伝子が主役であると論じています。


ダーウインの「進化の木」をイメージすればわかりやすいと思うのですが、生命は一つの形態から時代を経て様々な進化の可能性を探り枝分かれしていきます。

そしてその進化の木の根元からずーと遺伝子は生き続けているのです。

何十億年という歳月を。


その流れにおいてすべてとは言いませんが、遺伝子には都度情報が蓄積され、生存を脅かすものに対して対処を行い、形態や機能を変えてあるものは海の中、あるものは上陸し、自分たちの器である体を構築し激しい生存競争を乗り越えていくのです。


ですから、遺伝子、DNAには、祖先の動物、人類が体験した生命の危機に関する情報が、どのようなものであるかはわかりませんが、何らかの形で膨大な量が記憶されているのではないかと想像できます。

もっと言えば、生命の起源的な情報そのものかもしれません。


その経験や、その知恵が蓄積されて右脳が持っていたとしても、何ら不思議ではありません。


知性がさほどないと思われている動物もなども、例えば蜂の生態などもそうですが、危機回避の能力やその生存するため、子孫を残す為の行動には、プログラムされたかのような合理的で不思議としか言いようのない生態を持っている生き物がとても多いこともその理由になるでしょう。

その生態を利用する植物の生存方法も。


人間もおなじように、古代から行われてきたとされる、ハーブなどを用いた伝統的な治療法が、現代科学でみたら理にかなった方法であるだけでなく、とても効率の良いものだったり、その植物を育てるために行っていた儀式が、本当に効果があるものだったりします。


哲学、宗教、心理学、そして生物学などなど、すべてが同じようなところにアプローチをしているように見えます。


ここから推察すると、古代人は右脳の機能は、その遺伝子が持っている過去の情報に無意識にアクセスできたのではないかと。


つまり古代人が直観で行ってきたことは、動物と同じように生存の効率性のために、そのような行動をとるよう、遺伝子のもつ記録の蓄積が作ったものであるとすると、なるほど、と思わざる部分も多いのではないかと思います。

もちろん、学習と伝承によるものもたくさんあるとは思いますけどね。


これが、古代神話の神の声ではないでしょうか?

伝承や経験則による直観の場合もありますのですべてとはいいませんが。


ユングのいう集団的無意識もそれに近いのかもしれません。

ヴェーダ哲学もそれを目指していたのでしょう。

あくまで、そう考えるとちょっと納得が行くというだけの私的な思いなのですが・・・


とにかく、そのレコードのようなものにアクセスできたとしたら、直観的な危機回避能力などいろいろ腑に落ちます。


ちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、仮にそのレコードのようなものにアクセスができていたとして、それが視覚的であったり、音のようなものであったりと、感覚的なものとしてとらえる能力があった人たちが中世ぐらいまで残っていたとしたら、イスラム寺院の壁画などありえない美しさや、古楽のありえないほどの美しい響きもなんとなくですが、理解できます。


そして、時とともに神の声は聞こえなくなっていくのです。



まあ、いろいろ推測に過ぎないのですが、人が人らしく生きる、穏やかに生きるという自身の問題だけでなく、自然との共生を図る、という現代社会のテーマを考えるうえでヒントのようなものなのかもしれない、とつらつら思うのです。


そして私たち現代人がなぜ深い孤独感を感じるのか。ということにも深くつながっているような気がします。


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